若き日の思い

JA表紙

1996年に全中の出版物である月刊誌「月刊JA」の表紙の絵を1年間担当させていただいた時、表紙の言葉のコーナーに、それまでの自分の経験を書いたのですが、今にして思えば、自分のことをまとめて文章化する貴重な機会となっていて有り難いことでした。

1996.1

 私の絵のテーマは日本の古代の世界を描いて、古代から現在に至る、また未来に至る命のつながりを表現するということです。
このことは今回の表紙においても変わらないことです。 古代の日本は、新たな民族が渡ってきていままでいた民族を征服し、また次に渡ってきた民族が制服して・・・・・・ となん代にもわたってくり返していました。それは平安時代の前期までそのようであったのではと私自身は思っています。
 それが、事実か事実でないかは別にして、その時代にうごめいていた人たちがいたから貴方がいます。私もいます。 そんな時代から現在まで滔々と流れてくる血のつながりを考えると感慨深いものがあります。いま生きているほとんどの人が親戚かもしれません。いまに至る血の流れは大変なスケールです。それでも人は憎しみや恐れからか争いをします。
 病や困難な状況から、苦しさから生きる気力を失います。そんな人にも安らぎを、勇気を与えられる、そんな絵を描ければと思い頑張っています。

1996.2

 私は20代の前半,人を驚かす絵を描いていました。25歳頃、石井精一(畳を描き続けた画家で故人)という方にそのことを見抜かれて、「もう驚かす絵はやめて人が素敵だと思って立ち止まる絵を描いたら」と助言をもらいました。それから5~6年して、少しは私の絵の前に立ち止まる方が出てきたころ、奇麗なカーテンを描いてもカーテンの中はカラッポという思いにかられるようになりました。要するにテーマがないのです。懸命に絵のテーマを探し始めたのですがなかなか見つからず3年くらい経ったころ、ふと絵のテーマとして探しているから見つからないのではと気づきました。
 自分がこだわっていること、興味を持っていることがテーマなのです(それをどう絵にするかは後の問題です)。テーマが見つかって初めて描いた作品を前にして自分でもびっくりしました。いままでの作品とは違っていたのです。理屈では説明のつかないことですがテーマは絶対に必要のようです。テーマを発見するのに3年も回り道をしてしまったのですが、不思議にくやしいという気持ちはありませんでした。

1996.3

 私の絵の中にいつも白い玉があって、これは何か?とほとんどの方が質問をされます。見る方が太陽か月と思えばそれはそれでさしつかえありません。本人としては遠い太古からの“命のつながり”の象徴として描いています。魂?生命といったイメージを表現しやすいので、7年前ごろから使い始めました。 私のテーマとしている年代がかなり長い期間なので、どこかの時代の物が出てくるとその時代だけに限定されてしまい、いまのところ私が表現している世界には使いにくい素材になります。このテーマに気づいた当初は文字をモチーフにして描いていました。現在の女性像になってから10年くらいになりますが、衣は時代に限定されない抽象的なものにしています。
 今回の表紙では農作物が衣の柄に入っています。このモチーフは表紙用に特別に出て来た案で、JA誌のデザインをされている谷村氏の助言によるものです。農作物のモチーフ柄の発見は、あれこれとモチーフを使えない私にとってまことに有り難いことで、ひとつの宝物をいただきました。

1996.4

 題名が長いのもこだわりのひとつです。長くなったのはコンプレックスが原因で、絵を描いても物足りなく作品に厚みがないのを、題名の字数でなんとかしようという姑息な考えが始まりでした。今までは自然に考えられ、絵よりも先にできてしまうこともしばしばあります。ただし、苦もなく楽しくできるようになったのはテーマが決まってからで、このことからもテーマが大事であることがわかります。
 七五調は特に意識します。読んでいただく時に快く響くことは絵との相乗効果に欠くことのできないことですから。意味をそこなわずに言葉を換えなくてはならない時、必ずといっていい程それなりの字句が見つかります。日本語はたいしたものです。
 とにかく題名は絵との総合作品で、絵をご覧になる方が題名を見て一瞬でも雰囲気に酔うひと時を過ごしていただければ、また幾度となく見ていただく時でも真昆布のように噛めば噛むほど味が出せればと思っています。なかなか思うようにはまいりませんけど・・・・・・

1996.5

 この絵は何画になるのかという質問もよくされることですが、分類では洋画になります。えっ?と思う方がいらっしゃるかもしれませんが画材によって決められるのです。どんなに日本画に見えても画材が油絵の具など洋物であれば洋画、どんなに洋画に見えても岩絵の具などの日本物であれば日本画というわけです。したがって絵の具がグワッシュとアクリルで洋物ですから洋画になってしまうのです。この区分けは日本独特のもので、最近ではこの区分けがそのうち意味をなさなくなるのではと一部では考えられています。
 だんだん変化してきていますが、このような画風を始めたのは20年くらい前からです。版画のテキスチャー(風合い)が好きで、でも形が決まってしまう版画そのものはいやで、それを手描きで表現しようとしていました。仲間からは「なんでわざわざそんなことをするのか」といわれても頑固にやり続け、そしていつのまにかこんな画風になりました。 これからも変化していくと思いますが、なんとか山下正人調がほとばしる画風が作れればと模索中です。

1996.6

 私はこの表紙絵の他にさまざまなスタイルの絵を描きます。おそらくまったく違う人が描いたように見えるかもしれません。大きく分けて絵画とさし絵とに分かれます。絵画は発想から仕上げまで自分一人でやりますから“単独作品”。さし絵の出版物などは著者がいて、編集者がいて、デザイナーがいますし、広告などの場合もクライアントがいて、営業がいて、ディレクターがいて、コピーライターがいて、デザイナーがいてたくさんの人と相談しながら制作していきますから“共同作品”といった具合です。印刷物になったさし絵は最終の絵筆の責任は私にありますが、とても私一人だけの作品とはいえません。だからといってさし絵はいやな仕事ではなく、絵画とともにどちらもやりたいことで互いに相乗効果があり経済的なことも含めて良い環境にあるとむしろ感謝しています。しかしときおりそのことが絵画をやっていくのにマイナスなのではと先輩や友人が心配して指摘してくれます。そして、最近この単独作品と共同作品の分けている概念がくずれました。

1996.7

 独作品と共同作品との区分けの概念がくずれたのは、一昨年お寺の本堂の襖絵を描いてからです。 自由に描いてほしいということだったので単独作品になるのですが、頼まれたときかた仕上げまで色々な方々に助けられました。構想段階にしても誰かと襖絵の会話をしているときに、またその会話の後にヒントをつかんだり、まとまったりという連続でした。制作段階も画材や技術など色々な方に相談にのっていただき一人だけでは制作していませんでしたので共同作品なのです。 そう考えたとき、普段描いている絵画作品においても構想から制作まで同じことがいえて共同作品であることに気づきました。多かれ少なかれ人さまの助けをいただいて描いているわけで、単独作品はこの世にありはしないのかもしれません。
 さし絵の注文はヒントをもらっていると考えると絵画もさし絵も共同作品という同一線上に並びます。負い目もなく大手を振って制作できるようになりました。そして絵画はもちろん小さなカットでもまごころをこめてメッセージを送っています。

1996.8

 一昨年制作させていただいた襖絵は、本堂を新しくする機会に、落慶一周年法要にお披露目をするという計画ですすめられ、考えがまとまるのに約一年、制作は四か月でした。 題名は「冬秋夏春(とうしゅうかしゅん)」。人はお寺にくるとき悩みがあってくる人も用事でくる人も多かれ少なかれ何かを抱えていて季節でいえば“冬”。お寺に入ると静けさと落ち着きをとり戻し“秋”。さとりには転機がありそれはカッとした“夏”。そして穏やかな“春”となってお帰りになるといったように季節と逆のことがあります。画材は六色の墨。落款に顔彩と金粉。右半分が黒、左半分が白という雲の絵です。右が煩悩、左がさとり。襖がごご本尊に向かって右側面にあるので右が俗世間、左が浄界といったお寺の地図にもなっています。
 制作するのに新しい本堂をお借りしてご本尊の前で描きましたが、不思議なことに自分では描いた覚えのない龍がいたのには驚きました。描く意思があったとした思えないその龍はお寺よりも大きなもので「実は龍と縁のあるお寺」と後で聞かされなおびっくりしました。

1996.9

 33歳頃から20代の無理のツケが出てきて、日常生活を快適に過ごせなくなっていました。38歳のときに友人にすすめられ自彊術という健康体操を始めました。最初に体の状態を用紙に書くのですが、それをみた師範の先生に「あなたの症状は婦人病にそっくり」といわれ、たしかに該当しないのは生理痛だけでした。   
 10年目をむかえたいまでは婦人病のほとんどが解消され、内蔵が強くなり、それなりに体もガッシリとしてきています。また恥ずかしい話ですが、自彊術をやり出し始めて快便というものを味わっている次第です。とにかく軟弱な体がここまできたのですから自分でも感心します。やっていなかったらとうに大病を患っていたことでしょう。
 そして何よりも絵に対する姿勢に影響を及ぼし、絵を描くのに体力がいかに大切であるかということに遅ればせながら気がつきました。
■自彊術についてのお問い合わせ先 
(社団法人自彊術普及会)

1996.10

 小学校にあがる前、手塚治虫氏の“アトム”をたくさん写し描いていました。いまにして思えば人のプロポーションやあ物を立体的にとらえるトレーニングをアトムを通してやっていたようです。ところが絵画をやるようになったころから、自分の絵の中にマンガの感性があることが気になり始め取り除こうともがいていました。
 幸運なことに手塚氏の著作本の表紙絵を手掛けたことがきっかけで、他界する間際にお会いする機会がありました。初めて直接目にする手塚氏は意外にも痩せていてびっくりしましたが、それでも懐かしいふるさとに会ったという思いでいっぱいでした。私の絵をご覧になってご自分の感性を見つけられたのでしょうか、とても喜んでくださいました。時間を延長して話をしていただき再会を約束してお別れしましたが、それからしばらくしてラジオから悲報が流れました。
 その後、自分の中に手塚氏の感性があることがむしろ光栄なことで素晴らしいことだと気づいてから、不思議なことに気になっていたマンガの感性は消えていきました。

1996.11

 8年前から写真を始め、技術のなさを棚に上げ作品を発表しています。初め写真も絵と同じテーマで撮るべきだと思い、何を撮ったらそうなるのか1年くらい探しました。あるとき身の回りにいっぱいあることに気が付き、朽ちていく現代の人工物を撮っています(今の人工物を未来から見ると古代になります)。
 絵は自分のポジションですから気合いを入れて制作しますが、写真は自分のポジションではないので無責任にほどよい緊張感で制作できます。ところが周りの評価は意外によくて、時には絵よりもよいと評する人さえいることが嬉しい反面素直に受けとめられませんでした。 ある画家仲間の先輩の「写真作品のほうがあんた自身が出ている」という一言で、もし絵の場合でも写真と同じような気持ちで制作できたら凄いことだということに気づきました。制作姿勢がいかに作品に反映されるかをあらためて思い知らされ、写真をやり始めて構図などいろいろな収穫がありましたが、このことが一番大きな収穫でした。今度は手放しで絵を描くことができるかが大きな課題です

1996.12

 小さいときから和物が好きで、三味線や箏曲、民謡、歌舞伎など邦楽を見聞きすると安心感がありました。絵をやるようになってから、洋風に描くより日本っぽく描くほうがしっくりくるので、どうして友人たちと比べて日本的な物やリズムにこだわるのか不思議でした。
 近年になって隣のおばさんがむかし、小唄の師匠をしていて年中三味線や小唄を聞かされていたことを思い出しました。 生まれたときから耳を通して日本の呼吸が浸み込んで絵や感性に影響を与えていたのでしょう。このことは一般的なサラリーマンの家に育った私にとってありがたい環境だったと、いまではそのおばさんに感謝をしています。

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